湯浅醤油の起源
醤油以前のおはなし
醤の由来
3代将軍 源実朝の菩提を願って
覚心(法燈国師)の入宋
径山寺味噌との出会い
偶然からの醤油誕生
良質の水をもとめて
径山寺味噌・醤油のその後
黒潮かおる紀州湯浅
豊臣秀吉からの朱印状
紀州徳川家の保護とともに  江戸時代
紀州藩御仕入方の商品として
醤油の種類

湯浅醤油の起源

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 湯浅醤油は、由良興国寺の開山覚心(法燈国師)が1228年(安貞2)年中国から径山寺味噌を伝えたことにはじまるといわれており、その溜に目をつけ、種々な工夫の末に醤油が醸造されるにいたったといいます。そして、正応年間(1288〜93)には、岩佐治左衛門により近隣に販売されました。

 また1535(天文4)年には赤桐右馬太郎が百余石の醸造をし、大坂雑魚場小松屋伊兵衛方に送り、販売を委託したのが他国移出の嚆矢とされており、永禄年間(1558〜70)角屋右馬太郎、油屋伝七もさかんに製造し積み出していたといわれます。

 本稿は、湯浅の代表的な醤油醸造業者角屋馬太郎家から1841(天保12)年分家し、角屋長兵衛家を立てて醤油醸造業をはじめた加納家(以下「角長」と記す。)の皆さんの御協力を得て記述しています。ここに改めてそのことを記し、心からの謝意を表したいと思います。

角長の写真 角長の写真2
現在の角長の様子 現在の角長の様子
明治初期湯浅豪商図
明治初期湯浅豪商図(版画より)


醤油以前のおはなし

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醤 → 醤油の原型・塩漬けの発酵食品(塩の生産とともに)・弥生時代から出現

A 『草醤』 → 漬け物の原型(果実・野菜・海草の塩漬け)
B 『魚醤』 → 塩辛の原型 (魚肉や内臓を塩漬け、発酵)
 ● 「景行天皇説話」より
   皇子神節主命が高松で魚醤を朝廷に献上
C 『肉醤』 → 鹿・蟹の肉をたたき粱麹と塩をくわえて酒に漬け発酵させる。
 ● 「万葉集」文中16巻より(孝謙天皇のころ)
   わが肉は御膾@はやし、 @「はやし」は材料の意
    わが肝も御膾はやし  A「みの」は胃袋の意
     わがAみのはB御塩はやし  B「御塩」は塩辛の意

D 『穀醤』 → 味噌の原型(米・麦・豆などの発酵)
 ● 正倉院文書より
   『未醤』と書いて『味噌』と読ませる。
 ● 仏教の伝来とともに殺生を禁じる風潮によって肉醤が敬遠される『未醤』と書いて『味噌』と読ませる。
 ● 天武天皇の時代(686)
   但馬国『正税帳』に『醤』の文字がみられる。
 ● 孝謙天皇の時代(754)
   唐僧鑑真が渡来して律宗と共に未醤(穀醤)を伝える。


醤の由来

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奈良時代

 大宝律令が発令されたのは、文武天皇の大宝元年(701)です。それによると、当時の宮中では醤をつかさどる「醤院」が設置されています。

 ● 『大内裏図考証』
  醤をつかさどる主醤2人が任命され大膳をもって醤院勾当に任ぜられている。
 ● 『東大寺正倉院文書』
  醤、荒醤、滓醤、糟醤、醤糟、糟交醤、好醤、吉醤、悪醤、上醤、中醤、下醤、真作醤、市醤、未醤、市未醤、糟未醤 
  以上、17種の醤の字語がみられる。

平安時代

 はっきりと液状に近い醤が現れたのは平安時代でした。3日とあけずに宴会を催していた平安貴族の宴には、魚、鮑、雉などの肉がならべられました。そしてこれを塩、酢と醤で味付けをしながら食したらしいのです。

 ● 平安京の東西に市が設けられていて、東市には醤店、西市には味噌店が並び、大変賑わっていた。
 ● 『和名抄』(倭名類聚抄)「源順」著より
  一 … 醤は和名で比之保と訓む、別に唐醤あり豆麹なり …
    (※注 比之保は麦・豆麹は大豆を使用)
  一 未醤は、高麗醤・和名美蘇
    俗に味噌の二字を用いる
    『醤大豆一石、米五升四合、小麦五升四合 酒八升 塩四斗にて未醤一石を得る』
 ● 『延喜式』「藤原時平などの選」
  一 醤一石五斗を得るに、大豆三石、米一斗五升、糟米四升三合三勺二撮、小麦、酒、それぞれ一斗五升、塩一石五斗を用いる

室町時代

醤油を語義の上から詮索すると「醤を絞った汁」ということです。

 ● 『言継卿記』(山科言継著)
  一 永禄二年(1559)に言継卿が長橋局に、醤油の小桶を送った。
 ● 『慶長易林節用集』(1597)
  醤油の文字が初めて見られる。
 ● 『和漢三才図絵』(寺島良安著)
  比之保の文字
 ● 『貞丈雑記』六 飲食
   「醤油は古なし、京都将軍家の庖丁人 大草家の書の趣、醤油を用いる事みえず」
 と古くは、醤油がなかったことを説明し、「皆たれみそを用いる也」とある。


地域の特質を背景に

『肉醤』 → 中国大陸が主流
『穀醤』 → 朝鮮半島が主流
『魚醤』 → 日本が主流


3代将軍 源実朝の菩提を願って

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 醤油の誕生は承久3年、鎌倉三代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されたことに端を発するといわれます。その後、家臣の葛山五郎は実朝の菩提を弔うために高野山に入り出家し、願性と名乗りました。この願性の忠義心を喜んだ北条政子が、彼を紀伊由良庄の地頭とし、西方寺・現興国寺を建立したと言われます。願性は実朝の遺骨の半分を寺に葬り、残り半分を実朝が憧れ続けていた宋の国におさめたいと願いました。
 そこで、建長元年この願性の願いを叶えたのが、高野山での弟弟子であった覚心(法燈国師)です。


 覚心(法燈国師)の入宋

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 覚心が願性の援助を受けて宋へ渡航したのは、興国寺の記録によると建長元(1249)年から6年間とされますが、『湯浅醤油沿革大要』によると、後堀河天皇の安貞2(1228)とされ、大きく2説があります。

 宋に入った覚心は径山興聖万寿寺をはじめ浙江省の寺院修行を重ね、杭州護国寺の無門彗開の印可を得て建長6(1254)年に帰国。その後、願性に請われて正嘉2(1258)年西方寺の住持となります。彼は永仁6(1298)示寂、その後「法燈国師」号を授かり、西方寺は、興国元(1340)年に後村上天皇から「興国寺」の寺号を賜ったと言われます。


興国寺山門 興国寺
▲興国寺山門 ▲興国寺


径山寺味噌との出会い

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 その覚心が宋の径山寺の典座寮(台所)で修得してきたのが径山寺味噌(金山寺味噌)の製法です。径山寺味噌は嘗味噌で、煎った大豆と大麦を蒸し、塩を加えて発酵させ、瓜やナス、麻の実、紫蘇・刻み生姜などを漬け込みます。ところがこの製法は簡単には教えてもらえなかったのだといいます。
 典座職は、道場では非常に地位が高く10年〜20年修行しないとその職には就けません。それは修行者すべての健康を扱うためであり、精進料理の寺の食事の中で、この径山寺味噌は栄養価も高く、その製法は門外不出になっていました。
覚心は、修行僧の一人からこの製法を苦心してこっそりと修得して帰国しました。

 当時、庶民の食生活は非常に質素で貧弱であったため、この径山寺味噌の伝来は由良の村民に喜ばれ、以後盛んに造られたといわれています。この径山寺味噌が、思いもよらなかった副産物を生みます。これが醤油です。


偶然からの醤油誕生

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 覚心が苦労して修得し、由良の村人たちに伝えた径山寺味噌はやがて覚心が思いもよらなかった副産物を生み出します。これが醤油の誕生なのです。
 伝えられるところによると、ある時仕込みの間違いか、水分の多い径山寺味噌ができあがってしまったので、味噌の上澄み液を嘗めてみました。すると非常においしい。食べ物の煮炊きに使ってみると、これまたすばらしい。そこでその時から、わざと水分の多い味噌をつくるようになり、さらに工夫を重ねて現在の「溜醤油」に近いものにしていきました。つまり、醤油は径山寺味噌造りの失敗というまったく偶然から発見されたのです。

 径山寺味噌に漬け込まれた瓜や茄子などの野菜から、塩分の浸透圧で水分がにじみ出る。その水分を調味料として使うようになり、そこから醤油の製法を確立していったものと思われます。


良質の水をもとめて

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 紀州の由良で誕生した醤油造りは、覚心の行脚伝導の途上、北隣の湯浅荘(岩佐)に立ち寄り、この地の山田川水系の良質の水が、味噌・醤油の醸造に適することを知りやがて湯浅荘に移っていきます。湯浅には由良では得られない良質の水が豊富にあったからなのです。
 いま1つ、湯浅醤油発祥の言い伝えがあります。それは覚性尼の存在です。覚心は母(妙智尼)を思う孝心の強い人でした。それゆえ、自分が宋に渡っている間の母の世話を、お生と立子の二人に託しました。覚心帰国後、お生は彼によって得度し、覚性尼となりました。この覚性尼が湯浅出身であり、覚心自ら手をとって調味料製造を伝授したことが湯浅醤油発祥に大きい影響を与えたという話ものこされているのです。


径山寺味噌・醤油のその後

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 径山寺味噌は。その後大坂三右衛門なるものが一子相伝と称して盛んに製造し、諸国に販売するにあたり、紀州藩主の保護を蒙り、一層盛んに製造するに至りました。これを玉井醤と称し、現在の径山寺味噌のことです。
 製造販売醤油としての製造は文暦の頃であり、その方法は径山寺味噌醸造法にのっとり、塩と水を加え醸し熟した時にその液を籠にこし使用することになりました。しかし、自家用にのみ醤油を製造したために販売をする者はいませんでした。
 正応年間(1288〜1293)の頃に、岩佐屋治左衛門という者が近郷の需要に応じ販売の緒をなし、その後角屋某などが諸国に積み出しの懸隔をしましたが、当時戦国の世であり航海の便が確保しにくくついに休止しました。
 ところが、永正年間(1504〜1521)の頃には再びその製造が盛んになり、隣郡に販売し湯浅醤油の名が、紀州に広く知られることになっていくのです。


黒潮かおる紀州湯浅

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 湯浅は古くから開発され、鎌倉時代は強力な武士団の湯浅党が地頭を務める地域の本拠地でした。湯浅党は、農業だけでなく漁師を兼ねた海運力も持っていました。
 また、『紀伊国名所図絵』・『紀伊続風土記』によれば、湯浅は熊野路の喉の部分にあたり旅舎(旅館)が軒をつらねて遠近の商船が出入りし、天正年間(1573〜1592)でも民家が220戸ほどあったといいます。そして江戸時代になって海浜に石垣を築き、入江の松原を開いて商人市街をなすようになり、元和年間(1615〜1644)には1000戸及んでいたとされています。湯浅はこのように古くから開発され、近世初頭には既に町場を形成していました。
 天文4年(1535)赤桐右馬太郎は、百石余り醸造して「海魚菜物」を転送する便船に託し、大坂雑魚場の小松屋伊兵衛宛に送って販売を委託したのが、初めての出荷であったといいます。醤油の積み出しに大きくものをいったのが、湯浅党が誇る海上輸送力でした。大坂に出荷した当初は、醤油そのものが一般に知られておらず、販売ははかばかしくありませんでした。
 しかし次第に人気が出てくるにつれて、角屋右馬太郎や油屋伝七らも量産して積み出しに乗り出しました。


豊臣秀吉からの朱印状

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天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻めのおり、紀州湯浅の赤桐三郎五郎は兵糧米5石を献上し、恩賞として大船一艘を代々相伝することが許されました。その船は醤油の積み出しに充てられ、輸送力は一層、高められました。

朱印状



紀州徳川家の保護とともに 江戸時代

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湯浅醤油は全国的にも名の聞こえた近世紀州の特産物です。近世の湯浅醤油は紀州藩の御仕入方商品の1つとして藩の保護と統制のもとに発展をとげ、近世中期には下総国銚子(現在の銚子市)に進出し、現在の銚子の醤油産業の基礎を築きました。
徳川葵の紋
 

 


紀州藩御仕入方の商品として

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 湯浅醤油の発展の影には、紀州徳川家の特別の保護があったことが考えられます。すなわち業者は、図1・図2のように書いた壺型の看板を掛け、その運送船には、図3のような紋章の旗をなびかせて御用船同様の特権を与えられていたといわれます。

図1(醤油屋) 図2     図3
樽廻船 紋章の写真
醤油を運ぶ樽廻船(角長民具館展示模型) ○キの紋章
醤油樽を運ぶ船 醤油掘りの写真
醤油樽を運ぶ 醤油船が休息した醤油堀


また、その他次のような特権を与えられていたといわれます。
一、 問屋側において代金並びに諸運賃の不払者に対しては、租税不納者と同様の取扱 をもって取立権を
    与えるものとする。
一、 万一本人より代金徴集の途なき時は、その者居住の町内一同より弁償すべきこと。
一、 醸造家で資本の乏しき場合には、一定期限をつけて無利子年賦の資金を貸与せらるるのこと。

 湯浅醤油はこのように藩の特別な保護があったため、醤油業者は次第に増加し、摂津・河内・和泉・大和・中国地方にまでその販路は広がっていったのです。
 享和元(1801)年10月湯浅組大庄屋飯沼若太夫の呼び出しのあった醸造家に、下の人々の名がある。

角屋右馬太郎 山形屋瀬七 栖原屋太郎右衛門
栖原屋権六 栖原屋儀兵衛 宮原屋伝六
角屋喜左衛門 志田伊兵衛 網屋清七
浜屋十ニ 赤桐武兵衛 栗山十五郎
藤野屋小兵衛 油屋伝七 大坂屋三右衛門
下野儀右衛門 花屋新兵衛 網屋八兵衛
藤野伝吉 竹中八右衛門 秋田屋長右衛門
油屋市三郎 酒屋源右衛門 油屋善吉
前田屋四郎兵衛 天満屋彦次郎 丸野長五郎
丁子屋嘉七 井関屋善兵衛 栃野長兵衛
ヒケノ長右衛門 田中伝七 大坂屋仁兵衛
下野伝六 山家屋三右衛門 大坂屋仁郎右衛門
橋本仁右衛門 田坂屋庄兵衛 網屋甚吉
大工彦三 大工三右衛門 岩橋屋又七
炭屋六郎 栃野長太郎

 これらのうちには、酒の醸造家も含まれると考えられる者もあるが、総勢四十四名、その盛時を想像することができます。


醤油の種類

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醤油仕込み蔵の風景 醤油仕込み蔵の風景
醤油仕込み蔵の風景 醤油仕込み蔵の風景
醤油仕込み蔵の風景
【参考文献】日本の味 醤油の歴史
      林玲子 天野雅敏〔編〕 吉川弘文館

船堀1 船堀2 角長近景 角長近景 角長近景
近景 製造工程1 製造工程2 作業人形1 作業人形2
大豆 煎り釜 石臼 燃料のまき 麹のもろぶた
荷車 醤油びん 醤油びん 家庭用醤油いれ



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